「よいしょっと…」
何が詰まっているのか分からないダンボール箱。その上にはうっすらと埃がかぶっていた。
勢いよく吸い込んでしまわないように、少し息を止めながら、わたしはそれをゆっくりと持ち上げる。
手にずっしりと来る重量感。まったく、一体何が入っているのやら。
無表情なダンボール箱の表面に、ただべったりと黄ばんだガムテープが貼り付けられている。
「母さん、これ、どこに置けばいいの?」
一体なんだって人はこんなに物を置いておこうとするんだろう?
倉に高く積まれた、同じようなダンボール箱を見上げながら、私はため息をついた。
同時にふわっと浮かび上がった綿ぼこりが、微かな風をとらえてふわふわと飛んでいく。
「ダンボールに何て書いてある?」
「なーんも」
「じゃあ、中身確認したほうがいいわね。縁側に置いといて」
「はーい」
去年の冬、この家の主である私のおばあちゃんが亡くなった。
まあ、五年位前におばあちゃんが老人病院に入院したので、その時に、この家の管理もかねて今の主は私の伯母さん夫婦のものとなっているが。
おばあちゃんの葬儀の時、久しぶりに私はこの家の門をくぐった。
何年ぶりだっただろう…私が小学校低学年の時まで、よくこの家に遊びに来ていたことを覚えている。
私の母方の祖父母が早くに亡くなっていたせいもあるのだろう、私はよく、この家に招かれ、手入れの行き届いたこの広い庭で遊んでいた。
だが、おじいちゃんが亡くなり、おばあちゃんも元々足腰が悪く、通院がちになり始めたこともあってか、それ以降、この家に遊びにきたという記憶が無い。
そんなずいぶん昔のことなのに、不思議と、何をして遊んでいたのか、葬儀の間のほんのちょっとした休憩時間の時に、何度か思い出すことがあった。
例えば、縁側の置石の影とか、柱の傷とか、縁側からのびる倉への渡し廊下とか。
それらを見る度に、縁側に座っておとぎ話を優しい笑顔で話してくれたおばあちゃんの面影が頭の中に浮かぶ。
もうあるはずも無い宝物が、まだ縁側の下で眠っているような気がして、私は人目を盗んで、縁側の下を覗き込んでいた。
「あるわけ、ないのに………」
土ぼこりが溜まって、薄くくもの巣の掛かった縁側の下。
確か、私はそこに赤いビーだまを隠して、おばあちゃんと二人だけの秘密にしていた。
『これね、まいのたからものなの』
『それじゃあ、宝の地図も描かなきゃね』
裏側が印刷されていない広告に、でたらめに線をひいて、その中心に赤いバツ印を書く。
そんな、たあいも無い遊びや秘密が、ぽつぽつと浮かび上がっては、涙となって零れ落ちた……。
「あるわけ、ないのに………」
そんな言葉を自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、まだ何かを捜している。
確かにね、あったはずなんだ。私にしか見えない、私にしか分からないものが……。
私はおばあちゃんの葬儀以降、探している何かを思い出そうと時々、英語の教科書の英文をたどるのをやめて、ぼーっと机の上の電気スタンドを眺めていた。
なんだったっけ? なんだろう……?
受験戦争のまっただなかで、ゆっくりとそれを捜し求める余裕は私には無かった。
そのうち、受験のラストスパートに入り、ぼーっとすることはあっても、それを思い出そうとすることはできなくなった。
時間は過ぎ、なんとか希望の大学に入って、新しい生活に期待と不安を持ちながらの春。
大学生活には慣れて来たけれど……また、ぼーっと考えるようになった。
例えるなら、そう、たんすの奥とか……少し埃くさくて、でもちょっと懐かしい場所。
そうだ……おばあちゃんの倉の中で遊んでいた時だったような気がする……。
きらきらしてて、とても綺麗で……まるで光に透かしたビーだまのような……。
でも忘れている何かを、なんとか思い出そうとする度に、あまのじゃくな私がそれを邪魔しようとする。
思い出せないものならもう、今の私には必要ないものかもしれないじゃない。
宝物だった赤いビーだまを今更見つけたところで、何だっていうのさ?
とってもかわいげのない私の非の打ち所のない正論。
それでも探して見つけたいと思うのは……そのビーだまがとてもきらきらした宝石のように輝いていたからだと思うんだ。
そのビーだまを見つけたら、今のもやもやが晴れそうな気がして……―――
「……もしかして、これが五月病ってやつかな?」
あほらしい、と冷めた一言で切り捨ててみても、そうかも? と思うとふつふつと探求心がこみ上げてくる。
けど、一人で確認しに行く勇気が持てなくて、ごろごろとベッドの上を転がりながら天井ばかり見つめる日が続いた。
――――そんな私にとって、この一声は、たなからぼたもちだった。
「おばあちゃんが亡くなってだいたい半年経つでしょ?
ゴールデンウィークに入ることだし、ちょうどいい機会だから大掃除しに行くことになったんだけど……人手足りないから、まい。来なさいね」
ゴールデンウィークとはいえ、特に何の予定もない私は当然その掃除の手伝いとして狩り出される羽目になった。別にそのことに対して意義は無い、が。
強引といえば強引な母さんの言葉に、私の中のあまのじゃくが「いやだぁぁぁっ!」を連呼していた。
「……でも、これはチャンスだ」
この暗鬱とした気分を晴らすにはちょうどいい機会だと。
すぐに忘れている何かを思い出せるんじゃないかと、思っていた……んだけど。
――――げんじつって……きびしい。
「うわっ、これ、ダンボール破れかけてる!」
「中身ぶちまけないようにしてよ」
冬の葬儀が終わって、大まかな掃除は済んでいたらしいのだが、人手の要る倉の掃除はあまり手をつけていなかったようだ。
前日、チャンスだと意気込んでいた私だが……余計、滅入ってしまった。
目の前に埃にまみれたダンボールがうずたかく積みあげられていると、小さい頃の思い出探しなんぞしている余裕すらないって!!
朝から黙々と…いや、ぶつぶつ文句を言いながら、ダンボール箱を運び出していく。
ダンボールに何か書いてあるものに関しては、中身が知れているので、いるかいらないかを判断して捨てるものにまわす、ということなのだが。
「ねぇ……私、思うんだけどさ…奥にあるものはちゃんと何入ってるか書いてあるのに、どうして手前のものは、なーんにも書いてないの?」
「……あんたの押入れと一緒よ」
「あー、そうでございますか」
……つまり。最初はきれいに整頓するんだけど、だんだんめんどくさくなってきて、とりあえず箱にしまっときゃ、後はどーでもええわいってことですか……。
しかし、あのおばあちゃんがそんなことするかなぁ?
小さい時はいつも、この手入れの行き届いた庭で遊んでいた。
おばあちゃんは庭いじりが好きだったから、何かを整頓するということは好きだったような気がする。まあ、何かにつけて物を大事に取っておこうとする癖はあった。きれいなお菓子の缶や箱など、大事に包んで押入れになおしていたのを覚えている。
「あと、手前にあるものは姉さんが倉になおしたものでしょ?」
…………おばさぁぁぁぁぁあああんっ!!
こめかみを引きつらせながら、破れかけのダンボールがばらけないように運び出す。
当の伯母さんをちらりと見やると、苦笑を浮かべてはたきで埃をはたいていた。
あ、気付かないふりしてる。
でも、おばさんも根っからの片付け嫌いというわけではないようで、昔、倉に入ったときはちょっとさびた鉄の棚の中に箱がすし詰め状態だったのが、今では、ホームセンターで売っているような大型の錆びないスチールラックが仲間入りしている。
ちょっとずつ、片付けたけど……やっぱり面倒になったのだろう。
まあ、これだけの量、一家で全部片付けるのも疲れるしね。仕方ないか。
「……よっと。ねえ、これで何も書いてないダンボール、終わりみたいだけど?」
「あ、じゃあ、ちょっと休憩に入りましょうか?」
母さん達も、ほこり出しはあらかた済んだようだ。ダンボールを縁側に出し終わると、その数に私はぽかんと口を開けた。ずらっと並ぶダンボール、11箱。
……これを全部片すのか…?
家の中に入っていく二人の背を見て、私は重いため息をついた。
まあ、何も書いていないところを見ると、ほぼ捨てようかと思っているものばかりなんだろうけど……。
「この中にあるのかな……」
まだホントの所を言うと、何を探しているのか私自身も良くわかっていない。
宝物だった赤いビーだまのような気がするし、その宝の地図かもしれない。あるいは小さいころに遊んだガラクタ同然のもの全部?
……でも、なんだか違う。
きっとそれらも見つかったら嬉しいんだろうけど、探しているものは、そんなんじゃなくって…………ああ、なんだろう?
「……なにやってんだろう、私」
重いため息をついて後ろを振り返ると、久々に外の空気を吸ってきれいになった棚が並んでいた。
しばらく換気の為にと、扉を開けっ放しにしておくことになっている。
扉から入り込む光だけでなく、倉の天井付近の換気孔からうっすらと光が漏れているのもあって、天井からぶら下がっている照明を消してもそれなりに明るく、奥まで見通せるようになっていた。
「……宝……箱、か……」
つぶやいて、表面が風化してぼろぼろになっている黒ずんだ樹の扉に背中をつけた。
大きく息を吸って、吐く。
少しかび臭い、倉の独特の空気。
『おばあちゃんってでっかい宝箱、持ってるんやね』
まだ《倉》という言葉を知らない私は、ここを宝箱と呼んでいた。
『うちもこんなんほしい!』
ただの倉庫なのに、あるはずも無いキラキラの宝物を探し出そうと、私は何度もこの倉へ忍び込もうとした。
そんな私をおばあちゃんは面白がってか、普通なら錠前が掛かっていて開けられないはずの扉が、私が遊びに来たときは外されていた。私はそのことも知らず、夢中で、おばあちゃんの目を盗んでこの倉に忍び込んでいたのだ。
そのことに気付いたのは……実は葬儀の時だった。
いつでも入れるはずの倉にカギが掛かっているのを知ったとき、私は思わず母さんに、「いつからカギをつけたの?」と聞いたのだ。
『ずっと昔から付いていたわよ?』
何を今更、という風に話す母さんの言葉に、私はやっと気付いたのだ。
考えれば、すぐに気付くことだった。なのに、そのことに気付いた時、私は改めておばあちゃんが愛しいと思った。
きっと、おばあちゃんはほくほくと優しく笑いながら、倉へと忍び込んでく私を見ていたのかもしれない。
宝物見つけたといってガラクタを抱えて走ってくる私を、おばあちゃんは笑ってよかったねぇって褒めてくれたから。
「………」
じわりと霞んで行く、おばあちゃんの笑顔。
「あ、やばっ……」
ぱたっと足元に零れ落ちた涙を無理矢理拭い、私はもたれていた扉から背中を離す。
と。
厚く掛かっていた黒い雲の隙間から、ほんの少し、温かみを帯びた日が差し込んできた。渡し廊下に、日向と日陰の境界線を浮かび上がらせている。
「……これから晴れるかな」
ちょうどいい。湿っぽい空気が余計にかび臭さを感じさせていた。晴れるなら、これも少しはマシになるだろう。
視線を移すと、換気孔の隙間にも光が入り、斜めに光を流している。長く陽射しが差し込む倉の空気の中に、浮き上がった埃がキラキラと光って漂っているのが見えた。
「あ、けっこうきれい……」
これがかび臭い倉の中じゃなかったら、幻想的ーとか言えるんだろうけどね。
苦笑を浮かべた後、辺りをちょっと見回して、倉の中にそっと入り、私は両手で四角いファインダーを作った。
ずっと昔の小さい時の私が、おばあちゃんに教えてもらったこと。
いっぱい、ある。
しわの深いかさかさの手から、私はいろいろ学んだ。
それはおとぎ話だったり、昔の子供遊びだったり、いたずらの仕方だったり……。
このファインダーだって、そう。
『きれいと感じた時、こういう風に、そう、両手を組んでみ?』
これは、おばあちゃんのおまじないだといっていた。
きれいなものを心の中に収めるおまじないだ、と。
きれいなものを見つけたときはファインダーを作って、じっと中を見つめるのだ。
きれいなものがずっと色あせずに心の中に残るように強く念じて。
『そうすると、心の中はきれいなものでいっぱいになるだろう?
さぁ、やってごらん?』
両手の人差し指と親指でL字型にして、右手の平をこちらに、左手の平を向こうに向けるようにして、四角いファインダーを作る。
今じゃ簡単なことなのに、それがなかなか出来なくて、幼いときの私は何度も練習した。
『できたよ!』
『んじゃ、もう一回やってみ?』
『……あれ?』
何度もやり直して、そしてやっと出来た四角いファインダーから覗き込んだ世界は、何も変わらないはずなのに、そこだけが特別に見えた。
【―――絵、描けそう?】
「……え?」
四角いファインダー越しに、私は声のしたほうに目を向ける。
光が薄く横たわる正面に……その子は、居た。
―――……あ……。
ゆりかごに揺られて穏やかに眠る赤ん坊のような笑顔を浮かべて、木製の額縁に何も描いていない白いキャンバスをはめ込んだ絵を抱きしめた子供。
ぶかぶかのナイトキャップに、ぶかぶかのローブ。そこから生える、白猫のようなしっぽ。
……あぁ、そっか。やっと、思い出した。
私が何故この倉に忍び込んでいたか。
それは、おばあちゃんの宝箱の中に、君を見つけたからだ……。
私にしか見えない宝物が、ここにあったからだ……。
ゆっくりと。ファインダーを解いていく。
その世界が壊れないように。この子が消えてしまわないように……。
息をちょっと吹きかけるだけで消えてしまいそうなほど、ぼんやりした光の中で、優しい笑顔を浮かべたまま、この子は私を見上げている。本当に、昔から変わらない笑顔のままで……。
私が探していたのは、君だったんだ……。
「……あー…えー…と。
………ごめんね。君のこと、すっかり忘れてた……」
何を話し出したらいいか分からず、いきなり正直な感想を述べてしまう私。
……なんか、ちょっと情けなくなった。
【あはは、やっぱり】
鈴を転がしたような、澄んだこの子の笑い声。
「やっぱりって…寂しくないの?」
【寂しいよ、もちろん。でも思い出してくれたから、いいんだ】
言って、この子は嬉しそうに絵を抱きなおす。
途端に、この子を抱きしめたい衝動に駆られた。けれど、それはもう、やってはいけないような気がして、せめてこの子と同じように微笑み返そうと、私は懸命に頬を上げようとした。
目の奥が熱い。
心の中で、「ごめんね」という言葉がとまらない。
もっと他に気のきいた言葉は無いんだろうか……。
【……謝らなくていいんだよ?】
「……え?」
いきなりな言葉に、私は返す言葉を失った。
変わらず微笑んで、この子は言葉を続ける。
【時間の魔力……悲しいことも、嬉しいことも、時間と共に風化して、徐々に記憶が薄れていく。それを留める事は出来ないんだよ。
だから、君がボクを忘れていたことを、罪と思わないで。
ボクは、君が、逆にボクを思い出してくれたことが嬉しいんだよ。
だから、ね? 「ごめんね」を繰り返さなくていいんだよ?】
「……聞こえてたの?」
私の問いに微笑んで静かにうなづき返す。同時に気が抜けて、ぱたっと手の甲に涙がこぼれ、跳ねた。
「あの、さ……」
流れ落ちる涙を指で拭って、私はゆっくりとひざを折って座る。そして、次に何を話そうか、頭の中で考えていた。言葉にしなくてもこの子には伝わるだろうけど、できれば声に出して言いたかった。そんな私を察してか、この子は私が話し出すのをずっと待っていてくれる。
夢、幻……この子の正体なんて、どうでもいい。
ただ、この子と対話する時間を少しでも長く持っていたかった。
考えていくうちに……私が何を話したいのか、何を忘れていたのか、少しずつ分かってきた。
けれど、それをこの子に話していいものか……。
彷徨わせていた視線をこの子に戻すと、この子はすぐに微笑み返してくれた。ふっと、私も思わず笑みを返す。
「……私、ね。大学、合格できたよ。今、大学生やってる。
なんていうか、さ……高校の時の忙しさは無いんだけど……ちょっとだけ、本当に、時々だけど…みんな、大人になってるんだなって、思う時があるんだ。そしたら、なんか、自分は全然追いつけてないみたいで……なんか、あせっちゃって」
じっと私の目を見て、この子は無言で、私がぽつりぽつりと話すのを見守っている。
「……思うんだ。私、この道を進んでいて大丈夫かなって。もっと他にいい道があったんじゃないかなって……そう思う度に、思い描いていた先の道を見失っていくような気がして……」
姿は子供なのに、どこかこの子の雰囲気はおばあちゃんに似ている。
話の聞き方や笑顔の面影、頷く仕草。一つ一つが、ひどく懐かしい。
本当の子供には難しい話だろうに、私はいつの間にか、年上の人に悩みを打ち明けるような気分で話をしていた。
そっと。
視線を、この子が持ってるキャンバスのほうへ移す。曇り一点すらない、真っ白いキャンバス。
「ごめんね。あなたはずっと、この白いキャンバスを持っていてくれてるのに、私、まだ描けそうにないんだ……。
約束、ちゃんと分かってるよ。いつか、そこに、私の将来を描くって……。
ずっと小さいときに交わした約束……ちゃんと……」
何も知らなかった頃の私が、この子と交わした約束を、私はまだ果たせていない。
それどころか、私、だんだん迷い始めてる………。
幼かったあのときからもう十数年、時が流れているというのに。
【君は、大きくなったね】
先ほどの声より少し低い、穏やかな響きを持つこの子の声に、私は視線を上げた。
【本当に、大きくなった。ボクの言いたいこと、ちゃんと分かってくれた】
安堵の息を吐くようにこの子は言って、白いしっぽをゆっくりと振る。
【覚えてる? 君がボクの持ってるキャンバスに、君が握ってたクレヨンで、君のなりたいものを描くって言ってた事。
あの時、そのクレヨンじゃ、このキャンバスには絵を描くことは出来ないって言ったよね。
どうしてだと思う?】
まばたきをし、小さく首を振る私に、この子は幼い子供を見る母親のように優しい笑みを浮かべて言った。
【君がこれまで生きてきた中で、君がこれから生きていく中で、自分に合ったペンとパステルを見つけて描いてほしかったんだ。
小さい時に君が握っていたクレヨンじゃ、このキャンバスは小さすぎたから】
そう言って、優しく白いキャンバスを叩く。
【まだ何も知らなかった君だからこそ、いろんな絵を描いていた。大きいスケッチブックに……1ページ目はかばん屋さん。2ページ目は看護婦さん……そう、数えるときりが無いくらいに。
でも、今は、君は少しずつ世界を知り始めた。君の得意なこと、苦手なこと、分かるようになってきた。
その中で、君は最良と思える道を選んで歩いてきたんだ。
でも、まだまだ分からないこと、知らないことがたくさんある。
だから、ね?】
ひた、と私の目の奥を見つめる、空色の眼。
【まだ、描けなくていいんだよ。
何度描くのをためらっても、描きなおしても構わない。
時間の流れが君にとって残酷なほど速く感じるときがあるかもしれない。
でもボクが出来るのは、このキャンバスをずっと抱きしめていることだけ。
大した事じゃないって思うだろうけど、とっても大切なことだと、ボクは思ってる】
階段を一段ずつ、ゆっくりと上っていくように話をする姿は、また、おばあちゃんにそっくりだと思った。
もしかしたら…小さい時のおばあちゃんがここにいたら、私にこういう風に諭してくれたかもしれない。
「……じゃあ、私がそのキャンバスに絵を描くまで、ずっとそれ、持っていてくれるの?」
【うん!】
「……何十年先になるかもわからないのに?」
【そうだよ】
「ずっと待ちぼうけで、嫌になったりしないの?」
【どうして? 大切な君の未来なのに】
―――あ……。
【そんな自信のない顔しないで? 君はすばらしい絵描きなんだよ。そんな君の白いキャンバスを僕はずっと守っていられる。
ね? こんなに素敵なことなのに、嫌になったりなんかしないよ】
―――なんだか、気が抜けた。
この子が現れたときに感じた緊張感は一体なんだったんだろうって思うくらい……。
この子は、そんなに脆くはなかった。
それが嬉しかった。触ると、壊れてしまいそうな、触ってはいけないような気がしていた自分が、ちょっと可笑しかった。
この子は、遠い別世界の住人じゃない。ましてや、ここでだけでしか会えない妖精でもない。
そんな特別なものじゃなくて…本当は、ずっと、側にいたんだ。
ただ、私が忘れていただけで。
「……ありがとう。
やってみるよ。なんとか、さ。締め切り直前まで粘って、とびっきりの絵、描いてみせるよ。
あ、でも私、美術は2なんだけどさ」
【大丈夫。君の描く絵はきれいだよ。小さい時に描いていた絵、本当に全部、きれいだった】
「……そっか。よし、じゃあ期待してて」
大きくうなずいて、この子は満面の笑みを浮かべた。
心なしか、その時だけ、陽射しが強く差し込んだような気がする。
「……あの、さ。聞きたい事があるんだけど……」
ふと沸き立った疑問に、唐突ながらこの子に尋ねる。もうこの子は聞かずとも分かっているだろうけど。
「ほんのちょっとでいい。おばあちゃんが描いた絵って、見れる?」
頷いてくれることを期待したが…その子は静かに目を伏せ、首を横に振った。
「そっか……」
残念だとは思ったが、それを悲しいとは思わなかった。
なんとなく、答えの予想はついていたから……。
【でも、君が一番良く知っている絵だよ】
「……うん」
それでいい。その答えだけで、十分。
目を伏せて……一呼吸で勢いづけて立ち上がる。
目を開けて視線が合うと、なんだか自然と笑顔がこぼれた。
「……じゃあ、私、そろそろ家に入るよ。多分、お茶の用意、終わってると思うから」
【うん】
「じゃあ、ね」
【またね】
久しぶりに会った旧友に別れを告げるように、私は小さく手を振って倉を出た。
名残惜しいとは思わなかった。またひょっこり、この子と対話する時があるかも知れない。今度は、愚痴をこぼさず、笑って話をしよう。
案の定、私が来るのが遅いと思ってか母さんが縁側に出てきた。と、同時に私の顔を見て驚いた。
「あんた、何泣いてんの?」
「ほこりが目に入ったの」
疑いようのない嘘をついて、私は苦笑をこぼす。
きしむ縁側を歩きながら、少し腫れぼったい目を指でこすって、私は、ここで小さい時におばあちゃんのひざの上で、四角いファインダーを作って遊んでいたことを思い出していた。
なぁ、まい……きれいと思ったもの、みんな、このファインダーに写してごらんよ。
どんなに他人がちっぽけなものだと言っても、お前がきれいだと思ったのなら、ファインダーに収めて、心の中にいっぱいいっぱい、貯めていくといい。
何を貯めこんだか分からなくなったら?
ふふ…別に捨てる必要はないさ。
ただ、それがきれいだと思っていたことを忘れずにいればいい。
そっちの方が多分、難しいかもしれないけれどね。
ふふ、難しい話かねぇ?
ううん、今ならちょっと分かる気がするよ。
多分おばあちゃんが描いた絵は―――
「さてと、ちょっと休憩したら、次はこのダンボール箱、なんとかしないとね」
とんっと軽く足で蹴って、私は大きく伸びをした。
数時間後、私は倉の奥で一つの小さなダンボール箱を見つける。
何もかかれていないそのダンボール箱を開封すると、そこにはおばあちゃんが作ってくれた幼稚園時代のリュックとスケッチブック、その他いろいろなガラクタが詰め込まれていた。
スケッチブックの1ページ目はかばん屋さん。おばあちゃんが作ってくれたリュックが嬉しくて、私はかばんを作る人になると言っていた。2ページ目は看護婦さん。誰もがあこがれる白衣の天使。
ぱらぱらめくっていく度に、何になりたいといっていたか、分かるような分からないような、へったくそなクレヨンの絵が並んでいた。
このスケッチブックの中のどの未来を選ぶのか、またはここに描かれていない未来をこれから描いていくのか、まだわからないけれど……。
「少しずつ、描き出してみようか」
まずはペンを持って。パステル握って。イメージを膨らませて。
私は、何度も悩むだろう。何度でも描き直そうとするだろうけど……。
あの子が白いキャンバスを抱きしめていてくれるから。
少しだけ。少しずつ。頑張ってみようと思う。
あとがきのようなもの
さて、この「白いキャンバス」についての小話なぞ。
実はこの小説、今から7年前に書かれた小説を加筆修正したものです。(2010年5月現在)
知ってる人には懐かしい作品かも?
7年も経つんだなぁ。。。と振り返りつつ、ちょっとぼんやりとしていた描写を書き加えた以外は、さほど大筋は変わっていません。
ということは、7年前からあまり書き方変わってないということか。。。
この作品を一言でぶちまけると、五月病女子の妄想小話。。。(ひでぇ)
まぁ妄想はおいといて、誰にだってこういう風に喪失感にとらわれたりした時はあったんじゃないかなぁとも思う。
でも喪失感にとらわれる前に、あんたには今まで積み重ねてきたものがあったでしょ、それを忘れちゃいけないよ、と加筆をしていて読み取れた気がする。
当時書きたてだったときは、喪失感からの脱却に目を奪われていたけれど。
案外この話って前向きに進みだすためのお話なんだな、と書いた本人が今更気づいたw
こういう発見があるから昔の作品掘り起こすのって楽しいよねww
何が詰まっているのか分からないダンボール箱。その上にはうっすらと埃がかぶっていた。
勢いよく吸い込んでしまわないように、少し息を止めながら、わたしはそれをゆっくりと持ち上げる。
手にずっしりと来る重量感。まったく、一体何が入っているのやら。
無表情なダンボール箱の表面に、ただべったりと黄ばんだガムテープが貼り付けられている。
「母さん、これ、どこに置けばいいの?」
一体なんだって人はこんなに物を置いておこうとするんだろう?
倉に高く積まれた、同じようなダンボール箱を見上げながら、私はため息をついた。
同時にふわっと浮かび上がった綿ぼこりが、微かな風をとらえてふわふわと飛んでいく。
「ダンボールに何て書いてある?」
「なーんも」
「じゃあ、中身確認したほうがいいわね。縁側に置いといて」
「はーい」
去年の冬、この家の主である私のおばあちゃんが亡くなった。
まあ、五年位前におばあちゃんが老人病院に入院したので、その時に、この家の管理もかねて今の主は私の伯母さん夫婦のものとなっているが。
おばあちゃんの葬儀の時、久しぶりに私はこの家の門をくぐった。
何年ぶりだっただろう…私が小学校低学年の時まで、よくこの家に遊びに来ていたことを覚えている。
私の母方の祖父母が早くに亡くなっていたせいもあるのだろう、私はよく、この家に招かれ、手入れの行き届いたこの広い庭で遊んでいた。
だが、おじいちゃんが亡くなり、おばあちゃんも元々足腰が悪く、通院がちになり始めたこともあってか、それ以降、この家に遊びにきたという記憶が無い。
そんなずいぶん昔のことなのに、不思議と、何をして遊んでいたのか、葬儀の間のほんのちょっとした休憩時間の時に、何度か思い出すことがあった。
例えば、縁側の置石の影とか、柱の傷とか、縁側からのびる倉への渡し廊下とか。
それらを見る度に、縁側に座っておとぎ話を優しい笑顔で話してくれたおばあちゃんの面影が頭の中に浮かぶ。
もうあるはずも無い宝物が、まだ縁側の下で眠っているような気がして、私は人目を盗んで、縁側の下を覗き込んでいた。
「あるわけ、ないのに………」
土ぼこりが溜まって、薄くくもの巣の掛かった縁側の下。
確か、私はそこに赤いビーだまを隠して、おばあちゃんと二人だけの秘密にしていた。
『これね、まいのたからものなの』
『それじゃあ、宝の地図も描かなきゃね』
裏側が印刷されていない広告に、でたらめに線をひいて、その中心に赤いバツ印を書く。
そんな、たあいも無い遊びや秘密が、ぽつぽつと浮かび上がっては、涙となって零れ落ちた……。
「あるわけ、ないのに………」
そんな言葉を自分に言い聞かせながらも、心のどこかで、まだ何かを捜している。
確かにね、あったはずなんだ。私にしか見えない、私にしか分からないものが……。
私はおばあちゃんの葬儀以降、探している何かを思い出そうと時々、英語の教科書の英文をたどるのをやめて、ぼーっと机の上の電気スタンドを眺めていた。
なんだったっけ? なんだろう……?
受験戦争のまっただなかで、ゆっくりとそれを捜し求める余裕は私には無かった。
そのうち、受験のラストスパートに入り、ぼーっとすることはあっても、それを思い出そうとすることはできなくなった。
時間は過ぎ、なんとか希望の大学に入って、新しい生活に期待と不安を持ちながらの春。
大学生活には慣れて来たけれど……また、ぼーっと考えるようになった。
例えるなら、そう、たんすの奥とか……少し埃くさくて、でもちょっと懐かしい場所。
そうだ……おばあちゃんの倉の中で遊んでいた時だったような気がする……。
きらきらしてて、とても綺麗で……まるで光に透かしたビーだまのような……。
でも忘れている何かを、なんとか思い出そうとする度に、あまのじゃくな私がそれを邪魔しようとする。
思い出せないものならもう、今の私には必要ないものかもしれないじゃない。
宝物だった赤いビーだまを今更見つけたところで、何だっていうのさ?
とってもかわいげのない私の非の打ち所のない正論。
それでも探して見つけたいと思うのは……そのビーだまがとてもきらきらした宝石のように輝いていたからだと思うんだ。
そのビーだまを見つけたら、今のもやもやが晴れそうな気がして……―――
「……もしかして、これが五月病ってやつかな?」
あほらしい、と冷めた一言で切り捨ててみても、そうかも? と思うとふつふつと探求心がこみ上げてくる。
けど、一人で確認しに行く勇気が持てなくて、ごろごろとベッドの上を転がりながら天井ばかり見つめる日が続いた。
――――そんな私にとって、この一声は、たなからぼたもちだった。
「おばあちゃんが亡くなってだいたい半年経つでしょ?
ゴールデンウィークに入ることだし、ちょうどいい機会だから大掃除しに行くことになったんだけど……人手足りないから、まい。来なさいね」
ゴールデンウィークとはいえ、特に何の予定もない私は当然その掃除の手伝いとして狩り出される羽目になった。別にそのことに対して意義は無い、が。
強引といえば強引な母さんの言葉に、私の中のあまのじゃくが「いやだぁぁぁっ!」を連呼していた。
「……でも、これはチャンスだ」
この暗鬱とした気分を晴らすにはちょうどいい機会だと。
すぐに忘れている何かを思い出せるんじゃないかと、思っていた……んだけど。
――――げんじつって……きびしい。
「うわっ、これ、ダンボール破れかけてる!」
「中身ぶちまけないようにしてよ」
冬の葬儀が終わって、大まかな掃除は済んでいたらしいのだが、人手の要る倉の掃除はあまり手をつけていなかったようだ。
前日、チャンスだと意気込んでいた私だが……余計、滅入ってしまった。
目の前に埃にまみれたダンボールがうずたかく積みあげられていると、小さい頃の思い出探しなんぞしている余裕すらないって!!
朝から黙々と…いや、ぶつぶつ文句を言いながら、ダンボール箱を運び出していく。
ダンボールに何か書いてあるものに関しては、中身が知れているので、いるかいらないかを判断して捨てるものにまわす、ということなのだが。
「ねぇ……私、思うんだけどさ…奥にあるものはちゃんと何入ってるか書いてあるのに、どうして手前のものは、なーんにも書いてないの?」
「……あんたの押入れと一緒よ」
「あー、そうでございますか」
……つまり。最初はきれいに整頓するんだけど、だんだんめんどくさくなってきて、とりあえず箱にしまっときゃ、後はどーでもええわいってことですか……。
しかし、あのおばあちゃんがそんなことするかなぁ?
小さい時はいつも、この手入れの行き届いた庭で遊んでいた。
おばあちゃんは庭いじりが好きだったから、何かを整頓するということは好きだったような気がする。まあ、何かにつけて物を大事に取っておこうとする癖はあった。きれいなお菓子の缶や箱など、大事に包んで押入れになおしていたのを覚えている。
「あと、手前にあるものは姉さんが倉になおしたものでしょ?」
…………おばさぁぁぁぁぁあああんっ!!
こめかみを引きつらせながら、破れかけのダンボールがばらけないように運び出す。
当の伯母さんをちらりと見やると、苦笑を浮かべてはたきで埃をはたいていた。
あ、気付かないふりしてる。
でも、おばさんも根っからの片付け嫌いというわけではないようで、昔、倉に入ったときはちょっとさびた鉄の棚の中に箱がすし詰め状態だったのが、今では、ホームセンターで売っているような大型の錆びないスチールラックが仲間入りしている。
ちょっとずつ、片付けたけど……やっぱり面倒になったのだろう。
まあ、これだけの量、一家で全部片付けるのも疲れるしね。仕方ないか。
「……よっと。ねえ、これで何も書いてないダンボール、終わりみたいだけど?」
「あ、じゃあ、ちょっと休憩に入りましょうか?」
母さん達も、ほこり出しはあらかた済んだようだ。ダンボールを縁側に出し終わると、その数に私はぽかんと口を開けた。ずらっと並ぶダンボール、11箱。
……これを全部片すのか…?
家の中に入っていく二人の背を見て、私は重いため息をついた。
まあ、何も書いていないところを見ると、ほぼ捨てようかと思っているものばかりなんだろうけど……。
「この中にあるのかな……」
まだホントの所を言うと、何を探しているのか私自身も良くわかっていない。
宝物だった赤いビーだまのような気がするし、その宝の地図かもしれない。あるいは小さいころに遊んだガラクタ同然のもの全部?
……でも、なんだか違う。
きっとそれらも見つかったら嬉しいんだろうけど、探しているものは、そんなんじゃなくって…………ああ、なんだろう?
「……なにやってんだろう、私」
重いため息をついて後ろを振り返ると、久々に外の空気を吸ってきれいになった棚が並んでいた。
しばらく換気の為にと、扉を開けっ放しにしておくことになっている。
扉から入り込む光だけでなく、倉の天井付近の換気孔からうっすらと光が漏れているのもあって、天井からぶら下がっている照明を消してもそれなりに明るく、奥まで見通せるようになっていた。
「……宝……箱、か……」
つぶやいて、表面が風化してぼろぼろになっている黒ずんだ樹の扉に背中をつけた。
大きく息を吸って、吐く。
少しかび臭い、倉の独特の空気。
『おばあちゃんってでっかい宝箱、持ってるんやね』
まだ《倉》という言葉を知らない私は、ここを宝箱と呼んでいた。
『うちもこんなんほしい!』
ただの倉庫なのに、あるはずも無いキラキラの宝物を探し出そうと、私は何度もこの倉へ忍び込もうとした。
そんな私をおばあちゃんは面白がってか、普通なら錠前が掛かっていて開けられないはずの扉が、私が遊びに来たときは外されていた。私はそのことも知らず、夢中で、おばあちゃんの目を盗んでこの倉に忍び込んでいたのだ。
そのことに気付いたのは……実は葬儀の時だった。
いつでも入れるはずの倉にカギが掛かっているのを知ったとき、私は思わず母さんに、「いつからカギをつけたの?」と聞いたのだ。
『ずっと昔から付いていたわよ?』
何を今更、という風に話す母さんの言葉に、私はやっと気付いたのだ。
考えれば、すぐに気付くことだった。なのに、そのことに気付いた時、私は改めておばあちゃんが愛しいと思った。
きっと、おばあちゃんはほくほくと優しく笑いながら、倉へと忍び込んでく私を見ていたのかもしれない。
宝物見つけたといってガラクタを抱えて走ってくる私を、おばあちゃんは笑ってよかったねぇって褒めてくれたから。
「………」
じわりと霞んで行く、おばあちゃんの笑顔。
「あ、やばっ……」
ぱたっと足元に零れ落ちた涙を無理矢理拭い、私はもたれていた扉から背中を離す。
と。
厚く掛かっていた黒い雲の隙間から、ほんの少し、温かみを帯びた日が差し込んできた。渡し廊下に、日向と日陰の境界線を浮かび上がらせている。
「……これから晴れるかな」
ちょうどいい。湿っぽい空気が余計にかび臭さを感じさせていた。晴れるなら、これも少しはマシになるだろう。
視線を移すと、換気孔の隙間にも光が入り、斜めに光を流している。長く陽射しが差し込む倉の空気の中に、浮き上がった埃がキラキラと光って漂っているのが見えた。
「あ、けっこうきれい……」
これがかび臭い倉の中じゃなかったら、幻想的ーとか言えるんだろうけどね。
苦笑を浮かべた後、辺りをちょっと見回して、倉の中にそっと入り、私は両手で四角いファインダーを作った。
ずっと昔の小さい時の私が、おばあちゃんに教えてもらったこと。
いっぱい、ある。
しわの深いかさかさの手から、私はいろいろ学んだ。
それはおとぎ話だったり、昔の子供遊びだったり、いたずらの仕方だったり……。
このファインダーだって、そう。
『きれいと感じた時、こういう風に、そう、両手を組んでみ?』
これは、おばあちゃんのおまじないだといっていた。
きれいなものを心の中に収めるおまじないだ、と。
きれいなものを見つけたときはファインダーを作って、じっと中を見つめるのだ。
きれいなものがずっと色あせずに心の中に残るように強く念じて。
『そうすると、心の中はきれいなものでいっぱいになるだろう?
さぁ、やってごらん?』
両手の人差し指と親指でL字型にして、右手の平をこちらに、左手の平を向こうに向けるようにして、四角いファインダーを作る。
今じゃ簡単なことなのに、それがなかなか出来なくて、幼いときの私は何度も練習した。
『できたよ!』
『んじゃ、もう一回やってみ?』
『……あれ?』
何度もやり直して、そしてやっと出来た四角いファインダーから覗き込んだ世界は、何も変わらないはずなのに、そこだけが特別に見えた。
【―――絵、描けそう?】
「……え?」
四角いファインダー越しに、私は声のしたほうに目を向ける。
光が薄く横たわる正面に……その子は、居た。
―――……あ……。
ゆりかごに揺られて穏やかに眠る赤ん坊のような笑顔を浮かべて、木製の額縁に何も描いていない白いキャンバスをはめ込んだ絵を抱きしめた子供。
ぶかぶかのナイトキャップに、ぶかぶかのローブ。そこから生える、白猫のようなしっぽ。
……あぁ、そっか。やっと、思い出した。
私が何故この倉に忍び込んでいたか。
それは、おばあちゃんの宝箱の中に、君を見つけたからだ……。
私にしか見えない宝物が、ここにあったからだ……。
ゆっくりと。ファインダーを解いていく。
その世界が壊れないように。この子が消えてしまわないように……。
息をちょっと吹きかけるだけで消えてしまいそうなほど、ぼんやりした光の中で、優しい笑顔を浮かべたまま、この子は私を見上げている。本当に、昔から変わらない笑顔のままで……。
私が探していたのは、君だったんだ……。
「……あー…えー…と。
………ごめんね。君のこと、すっかり忘れてた……」
何を話し出したらいいか分からず、いきなり正直な感想を述べてしまう私。
……なんか、ちょっと情けなくなった。
【あはは、やっぱり】
鈴を転がしたような、澄んだこの子の笑い声。
「やっぱりって…寂しくないの?」
【寂しいよ、もちろん。でも思い出してくれたから、いいんだ】
言って、この子は嬉しそうに絵を抱きなおす。
途端に、この子を抱きしめたい衝動に駆られた。けれど、それはもう、やってはいけないような気がして、せめてこの子と同じように微笑み返そうと、私は懸命に頬を上げようとした。
目の奥が熱い。
心の中で、「ごめんね」という言葉がとまらない。
もっと他に気のきいた言葉は無いんだろうか……。
【……謝らなくていいんだよ?】
「……え?」
いきなりな言葉に、私は返す言葉を失った。
変わらず微笑んで、この子は言葉を続ける。
【時間の魔力……悲しいことも、嬉しいことも、時間と共に風化して、徐々に記憶が薄れていく。それを留める事は出来ないんだよ。
だから、君がボクを忘れていたことを、罪と思わないで。
ボクは、君が、逆にボクを思い出してくれたことが嬉しいんだよ。
だから、ね? 「ごめんね」を繰り返さなくていいんだよ?】
「……聞こえてたの?」
私の問いに微笑んで静かにうなづき返す。同時に気が抜けて、ぱたっと手の甲に涙がこぼれ、跳ねた。
「あの、さ……」
流れ落ちる涙を指で拭って、私はゆっくりとひざを折って座る。そして、次に何を話そうか、頭の中で考えていた。言葉にしなくてもこの子には伝わるだろうけど、できれば声に出して言いたかった。そんな私を察してか、この子は私が話し出すのをずっと待っていてくれる。
夢、幻……この子の正体なんて、どうでもいい。
ただ、この子と対話する時間を少しでも長く持っていたかった。
考えていくうちに……私が何を話したいのか、何を忘れていたのか、少しずつ分かってきた。
けれど、それをこの子に話していいものか……。
彷徨わせていた視線をこの子に戻すと、この子はすぐに微笑み返してくれた。ふっと、私も思わず笑みを返す。
「……私、ね。大学、合格できたよ。今、大学生やってる。
なんていうか、さ……高校の時の忙しさは無いんだけど……ちょっとだけ、本当に、時々だけど…みんな、大人になってるんだなって、思う時があるんだ。そしたら、なんか、自分は全然追いつけてないみたいで……なんか、あせっちゃって」
じっと私の目を見て、この子は無言で、私がぽつりぽつりと話すのを見守っている。
「……思うんだ。私、この道を進んでいて大丈夫かなって。もっと他にいい道があったんじゃないかなって……そう思う度に、思い描いていた先の道を見失っていくような気がして……」
姿は子供なのに、どこかこの子の雰囲気はおばあちゃんに似ている。
話の聞き方や笑顔の面影、頷く仕草。一つ一つが、ひどく懐かしい。
本当の子供には難しい話だろうに、私はいつの間にか、年上の人に悩みを打ち明けるような気分で話をしていた。
そっと。
視線を、この子が持ってるキャンバスのほうへ移す。曇り一点すらない、真っ白いキャンバス。
「ごめんね。あなたはずっと、この白いキャンバスを持っていてくれてるのに、私、まだ描けそうにないんだ……。
約束、ちゃんと分かってるよ。いつか、そこに、私の将来を描くって……。
ずっと小さいときに交わした約束……ちゃんと……」
何も知らなかった頃の私が、この子と交わした約束を、私はまだ果たせていない。
それどころか、私、だんだん迷い始めてる………。
幼かったあのときからもう十数年、時が流れているというのに。
【君は、大きくなったね】
先ほどの声より少し低い、穏やかな響きを持つこの子の声に、私は視線を上げた。
【本当に、大きくなった。ボクの言いたいこと、ちゃんと分かってくれた】
安堵の息を吐くようにこの子は言って、白いしっぽをゆっくりと振る。
【覚えてる? 君がボクの持ってるキャンバスに、君が握ってたクレヨンで、君のなりたいものを描くって言ってた事。
あの時、そのクレヨンじゃ、このキャンバスには絵を描くことは出来ないって言ったよね。
どうしてだと思う?】
まばたきをし、小さく首を振る私に、この子は幼い子供を見る母親のように優しい笑みを浮かべて言った。
【君がこれまで生きてきた中で、君がこれから生きていく中で、自分に合ったペンとパステルを見つけて描いてほしかったんだ。
小さい時に君が握っていたクレヨンじゃ、このキャンバスは小さすぎたから】
そう言って、優しく白いキャンバスを叩く。
【まだ何も知らなかった君だからこそ、いろんな絵を描いていた。大きいスケッチブックに……1ページ目はかばん屋さん。2ページ目は看護婦さん……そう、数えるときりが無いくらいに。
でも、今は、君は少しずつ世界を知り始めた。君の得意なこと、苦手なこと、分かるようになってきた。
その中で、君は最良と思える道を選んで歩いてきたんだ。
でも、まだまだ分からないこと、知らないことがたくさんある。
だから、ね?】
ひた、と私の目の奥を見つめる、空色の眼。
【まだ、描けなくていいんだよ。
何度描くのをためらっても、描きなおしても構わない。
時間の流れが君にとって残酷なほど速く感じるときがあるかもしれない。
でもボクが出来るのは、このキャンバスをずっと抱きしめていることだけ。
大した事じゃないって思うだろうけど、とっても大切なことだと、ボクは思ってる】
階段を一段ずつ、ゆっくりと上っていくように話をする姿は、また、おばあちゃんにそっくりだと思った。
もしかしたら…小さい時のおばあちゃんがここにいたら、私にこういう風に諭してくれたかもしれない。
「……じゃあ、私がそのキャンバスに絵を描くまで、ずっとそれ、持っていてくれるの?」
【うん!】
「……何十年先になるかもわからないのに?」
【そうだよ】
「ずっと待ちぼうけで、嫌になったりしないの?」
【どうして? 大切な君の未来なのに】
―――あ……。
【そんな自信のない顔しないで? 君はすばらしい絵描きなんだよ。そんな君の白いキャンバスを僕はずっと守っていられる。
ね? こんなに素敵なことなのに、嫌になったりなんかしないよ】
―――なんだか、気が抜けた。
この子が現れたときに感じた緊張感は一体なんだったんだろうって思うくらい……。
この子は、そんなに脆くはなかった。
それが嬉しかった。触ると、壊れてしまいそうな、触ってはいけないような気がしていた自分が、ちょっと可笑しかった。
この子は、遠い別世界の住人じゃない。ましてや、ここでだけでしか会えない妖精でもない。
そんな特別なものじゃなくて…本当は、ずっと、側にいたんだ。
ただ、私が忘れていただけで。
「……ありがとう。
やってみるよ。なんとか、さ。締め切り直前まで粘って、とびっきりの絵、描いてみせるよ。
あ、でも私、美術は2なんだけどさ」
【大丈夫。君の描く絵はきれいだよ。小さい時に描いていた絵、本当に全部、きれいだった】
「……そっか。よし、じゃあ期待してて」
大きくうなずいて、この子は満面の笑みを浮かべた。
心なしか、その時だけ、陽射しが強く差し込んだような気がする。
「……あの、さ。聞きたい事があるんだけど……」
ふと沸き立った疑問に、唐突ながらこの子に尋ねる。もうこの子は聞かずとも分かっているだろうけど。
「ほんのちょっとでいい。おばあちゃんが描いた絵って、見れる?」
頷いてくれることを期待したが…その子は静かに目を伏せ、首を横に振った。
「そっか……」
残念だとは思ったが、それを悲しいとは思わなかった。
なんとなく、答えの予想はついていたから……。
【でも、君が一番良く知っている絵だよ】
「……うん」
それでいい。その答えだけで、十分。
目を伏せて……一呼吸で勢いづけて立ち上がる。
目を開けて視線が合うと、なんだか自然と笑顔がこぼれた。
「……じゃあ、私、そろそろ家に入るよ。多分、お茶の用意、終わってると思うから」
【うん】
「じゃあ、ね」
【またね】
久しぶりに会った旧友に別れを告げるように、私は小さく手を振って倉を出た。
名残惜しいとは思わなかった。またひょっこり、この子と対話する時があるかも知れない。今度は、愚痴をこぼさず、笑って話をしよう。
案の定、私が来るのが遅いと思ってか母さんが縁側に出てきた。と、同時に私の顔を見て驚いた。
「あんた、何泣いてんの?」
「ほこりが目に入ったの」
疑いようのない嘘をついて、私は苦笑をこぼす。
きしむ縁側を歩きながら、少し腫れぼったい目を指でこすって、私は、ここで小さい時におばあちゃんのひざの上で、四角いファインダーを作って遊んでいたことを思い出していた。
なぁ、まい……きれいと思ったもの、みんな、このファインダーに写してごらんよ。
どんなに他人がちっぽけなものだと言っても、お前がきれいだと思ったのなら、ファインダーに収めて、心の中にいっぱいいっぱい、貯めていくといい。
何を貯めこんだか分からなくなったら?
ふふ…別に捨てる必要はないさ。
ただ、それがきれいだと思っていたことを忘れずにいればいい。
そっちの方が多分、難しいかもしれないけれどね。
ふふ、難しい話かねぇ?
ううん、今ならちょっと分かる気がするよ。
多分おばあちゃんが描いた絵は―――
「さてと、ちょっと休憩したら、次はこのダンボール箱、なんとかしないとね」
とんっと軽く足で蹴って、私は大きく伸びをした。
数時間後、私は倉の奥で一つの小さなダンボール箱を見つける。
何もかかれていないそのダンボール箱を開封すると、そこにはおばあちゃんが作ってくれた幼稚園時代のリュックとスケッチブック、その他いろいろなガラクタが詰め込まれていた。
スケッチブックの1ページ目はかばん屋さん。おばあちゃんが作ってくれたリュックが嬉しくて、私はかばんを作る人になると言っていた。2ページ目は看護婦さん。誰もがあこがれる白衣の天使。
ぱらぱらめくっていく度に、何になりたいといっていたか、分かるような分からないような、へったくそなクレヨンの絵が並んでいた。
このスケッチブックの中のどの未来を選ぶのか、またはここに描かれていない未来をこれから描いていくのか、まだわからないけれど……。
「少しずつ、描き出してみようか」
まずはペンを持って。パステル握って。イメージを膨らませて。
私は、何度も悩むだろう。何度でも描き直そうとするだろうけど……。
あの子が白いキャンバスを抱きしめていてくれるから。
少しだけ。少しずつ。頑張ってみようと思う。
あとがきのようなもの
さて、この「白いキャンバス」についての小話なぞ。
実はこの小説、今から7年前に書かれた小説を加筆修正したものです。(2010年5月現在)
知ってる人には懐かしい作品かも?
7年も経つんだなぁ。。。と振り返りつつ、ちょっとぼんやりとしていた描写を書き加えた以外は、さほど大筋は変わっていません。
ということは、7年前からあまり書き方変わってないということか。。。
この作品を一言でぶちまけると、五月病女子の妄想小話。。。(ひでぇ)
まぁ妄想はおいといて、誰にだってこういう風に喪失感にとらわれたりした時はあったんじゃないかなぁとも思う。
でも喪失感にとらわれる前に、あんたには今まで積み重ねてきたものがあったでしょ、それを忘れちゃいけないよ、と加筆をしていて読み取れた気がする。
当時書きたてだったときは、喪失感からの脱却に目を奪われていたけれど。
案外この話って前向きに進みだすためのお話なんだな、と書いた本人が今更気づいたw
こういう発見があるから昔の作品掘り起こすのって楽しいよねww
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