heard the echo 0 <Pro.>

耳が痛くなるほどの静寂が夜の海を支配していた。
音を無くした世界からの圧迫。
この状況を人間は《嵐の前の静けさ》というのだろうか?
だが皮肉かな、本来この海域には、まるで海を寸断するかのような強い電磁波を伴った嵐が常に吹き荒れている。
そこは人間が扱う電子機器はもちろん、海の生物が持つ特有の探査能力さえも狂わせ、荒れ狂う波に捕まったら最後、二度と戻る事は出来ない……それ故に、命絶える海―――《絶海》と呼ばれていた。
その《絶海》の嵐が今、ぴたりと止んでいるのだ。
波打つ事を忘れて押し黙った海は、鏡のように空に浮かぶ三つの月を照らし出している。
柔らかい砂色の満月を挟んで寄り添うように小さな月が二つ……《太陽の娘》と《月の娘》と呼ばれる天体が月の光を反射して輝いていた。
(……そうか、今日は《夢凪》の日だったか)
ふと、三つの月の姿を映す水鏡を音も無く割って一匹の白い老イルカが頭を出す。
彼の濡れた額に月の光が落ちて、水面に踊る三日月を思わせる痣がうっすらと浮かび上がった。
(しかし、これは珍しい。風の音も聞こえない……完全に海が凪いでいる)
首を傾げるように、老イルカは中天に座す三つの月を見上げた。
ゆっくりと、だが確実に……三つの月は重なり合おうとしている。
およそ十数年に一度、月と《娘》達が重なり合うその夜だけ《絶海》が凪ぐ。
その日を老イルカは《夢凪》と呼んでいた。
数十ほど《夢凪》を体験してきた彼にとって、《夢凪》自体はさほど珍しい事ではない。
だが今までの《夢凪》の中で、これほど静かな夜は無かった。
夜に活動する生き物たちも、いつもと違う空気を感じてだろうか、岩場で息を潜めているようだ。
(嵐に慣れたものからすれば、この《夢凪》は一種の脅威か。本来は喜ばしい事なのだがな)
老イルカはため息のように吸気口から息を吐き出す。吹き上げた呼気は白い霞となって空ろに消えた。
(今宵はどんな夢を見ておられるのですか? 《母》よ……)
白くくすんだオリーブの目が、思慮深く細められる。皺の深い目元は、どこか智恵に富んだ賢者の面差しを感じさせた。

―――古代より、海の同胞に語り継がれる生命の神話には。
天空より舞い降りた《父》が、海にたゆたう《母》に命の型を与え、この海に生命が誕生した、と伝えられている。
《父》がこの星に舞い降りるまで生命を抱いた事が無かった《母》は、生きる力に目覚めた生命を愛し、その命の躍動に心打たれたという。
《母》の生命力と《父》の智恵により生命は瞬く間に栄え、やがて……海にヒトと文明が生まれた。
そして、ヒトの導き手となるよう《太陽の娘》と《月の娘》が生み出され、《娘》達に見守られた文明は栄華を極めた。
……だが。
栄華を極めると共に失われた命は数知れず。
更なる繁栄を求めたヒトは、《父》の智恵を、そして《母》の生命力を我が物にせんとして争い、戦った。
栄光のために命を道具とさせたもの、争いを避けるべく陸へと逃げたもの、逃げる事すら出来ず命を散らすもの……その狂気と化した争いは、《母》の眠りと共に幕を閉じる事となる。
《母》は海に嵐の牢獄を作った。海を寸断する嵐……《絶海》だ。
《母》は、《父》と己をその牢獄に閉じ込め、《娘》達を空へ放った。そして誰の手にも触れられない深海で、深い眠りに就いたのだ。
《父》と《母》の加護を失ったヒトは衰退の一途をたどり、やがて文明と共に滅んだ。
生き残ったのは《父》の智恵を受け取らなかった生命と……陸に逃げたわずかな生命たちのみとなった。
己の力のみで生き残る事を余儀なくされた生命は、やがて《父》《母》の存在を忘れ、かつての争いを忘れ、争いの名残である《絶海》の理由すら忘れて……。
現代を、生きているのだ。

(もはや語り部としてすら生きていけぬ我らは、あなたの心が安らかである事を願うばかり。
しかし、永年眠りつづけるあなたの安らぎの夢の時間が、たった半夜とは皮肉なものだ……)
海がこうして凪ぐのは、空に浮かぶ《娘》達が暗く冷たい深海で眠る《母》に、かつて生命が生まれ出でたばかりの時代、身を寄せ合って時を紡いだその頃の夢を見せ、悲しみを癒しているからだと、同胞たちは語り継いでいた。
(だが哀しいかな、《絶海》は徐々に広がってきている。《夢凪》の日がこうして訪れるのもあと何回あることか……)
《絶海》はただの嵐の海ではない。かつて海で栄華を極めたヒトにとっては、その嵐は毒に等しかった。強い電磁派を伴った嵐は全ての感覚を麻痺させて、生きる機能を奪っていくのだ。
それは現代においても、すべての生命に少なからず影響を及ぼしている。

((――でも、あなたはこの《絶海》を越えていけるのに、どうしてここに居つづけるんだ?))

ふ、と。
脳裏に蘇った友の声に、老イルカはびくりと頭を震わせた。
(……まだ君は。
……いや、私は問いつづけるのか。答えられない問いかけを)
老イルカは辺りをグルっと見渡してから海中へと身を沈めた。
力強く尾を蹴ると、水泡が彼の体に渦巻いてちらちらと海面へ消えていく。その儚い泡音が、懐かしくも苦しい想い出を囁いた。

◇ ◆ ◇

出会った頃は、まだ幼いイルカだった。誰よりも探究心が強く、種の違う自分を恐れもせず、いろんな質問を投げかけてきた幼仔。
―――なぜ、おじいさんは僕よりも体が白いの?
―――なぜ、おじいさんは僕よりもたくさんの海を知ってるの?
―――なぜ、おじいさんはひとりぼっちなの?
―――なぜ、おじいさんは……―――
語り部の性か、老イルカもまた、そんな好奇心旺盛な幼仔に心を寄せ、海の歴史を語った。
老イルカは知っていた。この《絶海》に囲まれた海の外の世界を。
かつて同胞と共に生きていた世界だから、よく知っていた。
嵐に遮られる事無く降り注ぐ太陽の光。
さんご礁の鮮やかな色彩。
コバルトブルーの光のカーテンの中を雄々しく往くイワシの群れ。
巡る命。
その力強さ。
色。
コントラスト。
―――色鮮やかな世界。
(君は私の話す話を夢物語と笑わず聞いてくれた。この海が世界の全てではないと、君に伝える事が出来て満足だった)
《絶海》の嵐の影響で太陽の光が差さないこの海は死んだ珊瑚の森が広がり、その中をひっそりと這うヒトデのように魚達は生きている。
珊瑚に逃げ込む幾ばくかの魚を得る為に体を傷つけるイルカ達。幼仔も、老イルカもそうだった。
寒季になればその幾ばくかの魚すら捕らえられず、冷たい海水に身を苛まれ、体を寄せ合ってじっと暖季を待つ。
《絶海》の内側しか知らないこの幼仔には、外海はさぞや楽園のように聞こえただろう。
(この海は貧しい海だ。私も、豊かな外海を想わずにはいられなかった。
だが……望んで欲しくは無かったのだ)
望郷の念に、老イルカは外海の美しい思い出しか語らなかった。
―――いや、語れなかったのだ。
彼はその美しい外海から逃げ出してきたのだから。
どの生命にも天敵となる者たちがいる。老イルカの一族にも例外は無かった。
《母》の語り部として生きる彼らは、《母》の安寧を存在理由として永い間全世界の海を渡っていた。
そう、唯一彼らだけが絶海の嵐の影響を受けずに海を渡ることが出来る古代種族なのだ。
古代のヒトはそんな彼らを脅威と見なし、天敵を作った。
その天敵は今もなお絶えることなく同胞を苦しめ、絶滅へと追い詰めている。
老イルカの一族はその天敵に襲われ、彼を残して全滅した。
この絶海に囲まれた海に逃げ込む事で、彼は助かったのだ。
……老イルカはそれを話せずにいた。幼仔と別れる、その日まで。
(君にとって初めての《夢凪》の日……君は最後に問うたな。
なぜここに居つづけるのだ、と。
……そして君は行ってしまった)
幼仔の成長は老イルカにとって、目覚ましいものだった。
パタパタと尾ひれを忙しなく動かして彼の後ろをよちよち泳いでいたと思っていたのに、いつのまにか、幼仔は力強い尾ひれの一掻きでどこまでも進んでいける成体へと成長していた。
だが成長しても、探究心に輝く彼のマリンブルーの瞳が色褪せる事は無かった。
((今なら一緒にこの海を越えていける!!))
《夢凪》を目の前にして興奮する彼に、それでも電磁波の影響は少なからず残っている、危険な海である事は変わりない、と老イルカは強く旅立つのを拒んだ。
((……超えられはしないのだ。君であれ。私であれ))
老イルカは懺悔をするように、友に自分がこの海に逃げ込んだ顛末を話した。
なじってもいい。恨んでもいい。下手に夢を持たせてしまった自分が愚かだったと……。
((――でも、あなたはこの《絶海》を越えていけるのに、どうしてここに居つづけるんだ?
あなたの生きる場所は……生きたい場所は、ここではないはずだ))
老イルカは目を伏せて首を横に振った。
……彼はもう何も言わなかった。
力強く水面を叩いた三日月型の尾ひれ。迷いも無く振り落とされたそれは、泡沫の輝きを残して青い闇へと消えていった。

(私にはもう……遠い場所なのだ)
この海は貧しい。だが己を脅かす天敵はいない。
なにより……一族を見捨てる形で逃げ出して自分だけが生き残ってしまった悔いの念が、外海を遠いものへとさせていた。
彼が泳ぎ去って、もう数十年。壮年の彼を想像するが、どこかぼやけてはっきりとしない。
(夢凪の夜をまたこうして迎えたが……もう問わないでくれ……)
皺深い瞼を伏せて、老イルカは息を吐き出した。
―――――と。

ドボォォォォォンッッッ!!

突然、全身を叩きつけるような激しい水音に老イルカは驚愕し、海面を振り仰いだ。
白く揺らめく月を遮るように、無数の泡が銀色に煌いて何かを包み込んでいる。
(……なんだ?)
ギキキキキ……と低く唸って、老イルカは泡の塊の側へと泳ぎ寄った。
そして取り巻く泡が消える間もなく、それが人間である事を悟った。
(なぜこんなところに人間が?!)
月は中天を過ぎ、夜中。近くに切り立った崖があることを考えると、そこから落ちたのだろうか。
………いや。
流れ伝った血の匂いに老イルカは目を細め、注意深く観察する。
年の頃は少年と青年の狭間と言ったところだろうか。
消毒薬の匂いの染みた服からは痩せた肢体がのぞいている。
乱雑に布を巻かれた左腕からはおびただしい血が流れ広がっていた。
かろうじて心音を聞き取る事ができるが、身動きしない所を見るとどうやら気絶しているようである。
(………)
老イルカは無言で沈み行く少年を見ていた。
彼は知っている。この崖の上に建つ人間が作った狂気の城を。
生命の進化を謳い命を冒涜する彼らを、遠い昔から知っている。
(過去を忘れ、ヒトの歴史を繰り返すのか、人間よ……)
この少年は、その彼らの妄執の犠牲者なのだろう。
老イルカは黙祷を捧げるように目を伏せ……ふと、少年が右手に握っているものに目を留めた。
(これは……まさか、古代の弓?!)
それは鋼の銃だった。
しっかりと握りこまれたそれは口伝と少々形を変えているが、確かに《古代の弓》と呼ばれる古代のヒトが生み出した兵器。
(この少年……まさか……)
老イルカは警戒を強めて沈み行く少年を追っていく。
月の光が差し込む中、うねる青銅色の髪の隙間に見えた額の痣と……はだけた胸元からわずかに見えた胸元に―――鱗。
(間違いない! この少年は……古代のヒトだ!!)
―――何故ここに滅んだはずのヒトが?!
―――何故今自分の目の前に?!
突然の出会いと沸き立つ疑問に老イルカは動揺を隠せなかった。
だが同時に頭の中に警鐘が鳴り響く……このまま息絶えるのを見届けるべきだ、と。
この少年の存在は少なからず《母》への脅威となるだろう。過去が強く物語っている。
例えこの少年一人だとしても、失われたはずの兵器を持っている。下手すれば失われた文明を呼び起こす事も可能となるだろう。
(人間がこの少年を見つけ出したのか……人間は本気で歴史を繰り返すつもりなのか?)
《絶海》が広がる理由がそこにあることを察し、老イルカは全身が粟立つのを感じた。
(………だが、私に一体何が出来るというのだ……)
外海に散る同胞に知らせる術はもはや無い。
(……なにより私は逃げ出した者ではないか)
老イルカは少年を見下ろす。
死へ落ちていく姿をわずかに月明かりがとらえている。
見届けるまでもない。もはや少年は気絶している。間もなく息絶えるだろう。
―――だが。
目が、離せない。
追わずにはいられない。
全身で、まだ残っている少年の体温を感じようとしていた。
(……分かっている。この姿は……私だ)
何も出来ないのだ。
ただ、死を待つしかないのだ。
………まるで今の私ではないか。
(………けれど、私は―――)

―――ここに来いっ!! あんたの生きる場所はここだっ!!

―――刹那。
はるか彼方から強く呼びかける声にハッとなって、老イルカは少年を見る。
少年の声ではない。その声は、声というより波に近かった。そう……イルカの発する音波に。
(いや……これは……)
懐かしい声。けれど間違いない。体中の血が訴えている。
(これは……同胞の声だ)
……まさか……同胞が、この少年を呼んでいる?
―――と。
ぴくり、と。
少年の左手が動く。
まだ意識は回復していない。
だが声に応えるように、少年はゆっくりと手を伸ばしていく。
(……なんと……)
少年には見えているのだろうか。例え伸ばされた手の先が深海の暗闇であったとしても。

光が。

(……そうか。君は生きたいのだな……)
老イルカの脳裏に蘇る、友の最後の言葉。
((―――あなたはこの《絶海》を越えていけるのに、どうしてここに居つづけるんだ?
あなたの生きる場所は……生きたい場所は、ここではないはずだ))
……尾ひれを叩く勇気をもてなかった。
叫ぶ事を自ずから諦めた。
生きる屍となって、ただ悔やむ事しかしなかった。
けれど……。
(私も、いきたかったんだ)

―――同胞よ。何故あなたがこの少年を呼ぶのかは分からない。
……いいや、もう難しい事は考えるな。
私は、この少年と共にあなたの所へ行きたい。

老イルカは伸ばされた少年の左腕にそっと噛み付く。
―――生きたいんだ!!
少年と共に老イルカは海面へと浮上して一呼吸すると、滑るように力強く泳ぎだした。
《絶海》の外へ。

南へ―――――

海青喫茶

朝比奈孝樹の創作同人なページ。